2012年5月9日水曜日

余命延長抗がん剤の副作用とQOL

「大往生したけりゃ医療とかかわるな」(幻冬舎新書)の著者であり、医師である中村仁一氏は、「大往生したければ医療と深く関わるな」「がんで死ぬのがもっともよい」と主張する。

京都の社会福祉法人老人ホーム「同和園」の常勤医を務めながら、数百例のお年寄りの自然死を見送った経験からの氏独特の意見だ。ここには、日本の老人医療の問題点と 各自が持つべき死生観が凝縮されている。

「医者が「大往生したかったら医療に深く関わるな」と発現すると、皆から いぶかられる。しかし、病院では、年寄りが 苦痛の果てに死んでいる現実があると。もしも、病院に行かなければ、もしも、医療が濃厚に介入しなかったら。きっと穏やかな死を迎えていたはずなのに 。
病気やケガを治すのは、基本的には、人間が生来持っている「自然治癒力」。医者はそれを助ける「お助けマン」、薬は「お助け物質」に過ぎないと。医療は年老いたものを若返らすこともできなければ、死を防ぐこともできない。生物は当たり前に「老いと死」には無力なのだ。
たとえばがん。「がん」とは すなわち「老化」。研究者によって大小はあるが人間は毎日5000個ぐらい細胞ががん化している。しかし、身体に自然に備わっている免疫の力でがん細胞を退治しているのでがんが発病しないだけだ。ただ、年をとると免疫力が自然と衰えるために、年寄りはがんになる。当たり前のことで、驚くことではない。
がんの予防には「がんに ならないようにする」一次予防と、「がんを早く見つける」二次予防がある。二次予防には「早過ぎる死」を防ぐという目的もある。しかし、繁殖を終え、生きものとしての"賞味期限"の切れた年寄りにとっては、最早「早すぎる死」というものは存在しないはずと笑いながら断ずる。
まだ成すべきライフワークが残っている年寄りは別として、普通の年寄りに「がん検診」は意味が無いと言えるだろう。鮭は産卵後間なしに息絶え、一年草は種を宿すと枯れ、つまりは、繁殖を終えたら死ぬ、という自然界の“掟”は、人間にも当てはまると説く。
"がんは強烈に痛むもの"と一般には理解されており、ホスピスの調査でもがんで痛むのは7割程度。逆の視点では、3割はがんでも痛まないのだ。つまり3人に1人はがんでも痛まない最後を迎えられる。
老人ホームでの実例としては、食が細り、顔色が悪くなってやせてきたので、病院で検査したら手の施しようがない「末期がん」と診断されとされた患者が、そのまま何もしない選択をしたが、最後まで痛まずに往生した。
少なくとも発見時に痛みのない手遅れのがんは最後まで痛まないということは確実に言える。
塊になるがん(固形がん=胃がん・肺がん・大腸がんなど)は抗がん剤を使っても、多少小さくなることはあっても、消滅することは無い。しかし、抗がん剤はいわば"猛毒"なので、正常な身体の組織や細胞に甚大な被害を与え、ヨレヨレの状態になり、QOL(生の質)を激しく貶める。
"繁殖"を終えたら、抗がん剤は使わない方がいい。延命効果はなくとも必ず縮命効果はあるのが抗がん剤。数ヶ月の延命が、果たしてどういう状態の延命と”生”となるのがを考えるべき。青息吐息のヨレヨレの状態で生きることに意味のある人間は少ない。長生きするつもりが、苦しんだ末に命が短くなっているがん患者が多いのだ。
「がんで死ぬんじゃないよ、がんの治療で死ぬんだよ」と。

中村医師の言には、確かに一理あるだろう。

生物としての生死の摂理と抗がん剤の功罪は熟考にも余りある。たしかに「がんの余命延長」と引換に がん患者のほぼ全員が直面する痛みと辛さは、その時間と質を考えざるをえない。家族のエゴと言われる場合さえあるかもしれない。

しかし、それでも人類はがんを克服するべく研究を重ねている。副作用の少ない、がんを完治する新薬は、遠からず開発されるはず。そまでの数年間~数十年間は、生への"業"の深さと、達観した死の受け入れとの天秤に、個々人の人生観が問われるのだ。

ただ、がん回復への渇望を誰しもが持ち続けることには変わりない。

がん利用方針の選択する際の参考にはなるだろう。